ジャーナリストの死

「イスラム国」により拘束されたジャーナリスト・後藤さんの死は、

日本中を震撼させた。

マスコミでは、

「後藤さんの死を無駄にするな」

「後藤さんが何を伝えたかったか、考えよう」

という論調が多い。

 

一方私の周りではどちらかというと批判的な意見を言う人が多い。

高村元外務大臣の「蛮勇と言わざるを得ない」という言葉に

同調する人もいる。

それは、ジャーナリズムにセンチメンタルな思いを入れることに

違和感があるからかもしれない。

「彼らは職業として、危険地帯に行ったのだ」

という意見だ。

 

私は、後藤さんがどんなジャーナリストか知らないので、

そこの議論に混ざる気はない。

 

問題は、なぜこんな残虐なことが出来てしまうのか?

ということだと思う。

今回はたまたま日本人がターゲットにされたから、

こうしたニュースに私たちは触れることが出来たが、

実際には、欧米の国々の人物や、ヨルダンのパイロットも火あぶりにされている。

 

どんな国籍のどんな人種の人であれ、同じ事だ。

こんな事が起こってはならない。

 

はらわたが煮えくりかえるほどの怒りを覚える。

 

しかし、この問題は怒りや憎しみでは解決されないのだ。

 

怒りや憎しみに出口はない。

 

背景に、貧困やアイデンティティの喪失があるならば、

皮肉にも彼らを救うことしか、問題の解決はなされない。

 

平たく言えば人道支援だ。

経済支援と教育。

そして、医療だ。

自分を攻撃するものには、

いつまでも敵対心を抱き続けるが、

自分を救ってくれた人を恨み続けることが出来るか?

 

理性は人間の最後の砦だ。

それを保つことが出来るか、今、問われている。

 

もし、後藤さんが伝えたかったことは何か、

私の解釈は、それしか思いつかない。

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