「そして、父になる」の
是枝監督の雑誌のインタビュー記事を読んだ。
監督の経歴は知っていた。
テレビマンユニオンという大手の制作会社で、
ドキュメンタリーの名手として名を馳せ、
33歳で映画監督デビュー。
まさに、華々しい経歴。
と、思いきや…
その前、20代後半まではADとして働いていたそうな。
しかも、「使えないダメAD」と言われていたみたい。
途端に親近感が沸いてきた。
私が就職した制作会社は、
テレビマンユニオンのように大手ではなかったので、
ADとして下積みを積ませる余裕はなかった。
私は半年しかAD経験がない。
それでも、自信を持って言える。
私もダメADだった。
段取りは悪いし、現場での動きも悪い。
見ていないところではサボる。
それでいて生意気。
毎日、先輩に怒鳴られ、それでも出来ない。
半年経って、ディレクターという肩書きをもらい、
一人で現場に出ても、状況は変わらなかった。
カメラマンに怒鳴られながら、現場で仕事をしていた。
いつだったか、38度以上熱が出たときがあった。
そんなことでは仕事を休むことが出来なくて、
もうろうとした意識で仕事をしていた。
そんなときに限って、面倒くさい仕事で。。
あるテーマパークでの取材だったのだが、
照明を組んだ後、「一回撤収して会議室に来てください」と担当者から指示が出た。
私は、技術スタッフにその旨を伝えて先に会議室に戻る。
しかし、待てど暮らせど技術スタッフは会議室に来ない。
技術スタッフには戻ることが伝わっていなかったのだ。
当然、カメラマンも音声も大激怒だった。
しかし、熱でもうろうとしていたせいもあり、
その日の私はどうかしていた。
「ぼくはきちんと指示しました。
この現場はぼくが仕切っているんです!
指示に従っていただかないと現場は動きません」
と、反対に怒鳴り返した。
今考えてもはずかしい。
技術スタッフにきちんと伝えていたら、
きちんと会議室に戻ってきたはずだ。
間違いなく私のミスであったろう。
ただ、どういうわけかそれから技術スタッフの私への態度が変わった。
なんとなくだが、それから一人のディレクターとして見てくれるようになったように思う。
それが、私のディレクターとしての第一歩だったのかもしれない。
是枝さんの記事を読み、
なぜか、あの日のことを思い出した。