幼い頃から、私たちは「何かになる」ことを既定路線として教わってきた。
そして、この年になると世の中の人たちは私を「何か」として見る。
あるときは「映像ディレクター」
あるときは「ライター」
そして、「父」であり、「夫」だ。
たとえそれが、なりたかったものだとして、
なってしまうと、どうしたらいいのか、分からなくなる。
つまり、何かになる、だけでは、満たされないのである。
満たされないものを、どんな風に埋めたら良いのか、
ここ数年、ずっと考えている。
私には師匠がいる。脚本家の猪又憲吾さんだ。
もう、亡くなって10年以上経つ。
私は、師匠の元で勉強していたときに、
「この人は『どんな景色を見ているんだろう』と思っていた。
人間を本質、物語の本質を見つめた先には、どんなものが見えるんだろう」
45歳になった今でも、それが全然見えない。
人間も分からず、物語も分からず。
だから、見たいと思い続けて、もがく。
もがいたから何か得られるほど甘くない。
それでも、その欲求は止められない。
何にならなくても、死ぬまでに一度はどんな景色か見てみたいのだ。