最近、「りゆうがあります」という絵本が、売れているそうだが、
文学にも共通するらしい。
大江健三郎の「個人的な体験」を読んだ。
言葉を自在に扱い、心情を描くその手法は見事としか言えないが、
ラストが納得いかない。
そう考えたのは私だけではなく、
かの三島由紀夫も同じ感想を持ったらしい。
「技術的には、『性的人間』や『日常生活の冒険』より格段の上出来であるが、芸術作品としては『性的人間』のあの真実なラストに比べて見劣りがする。もちろん私は、この『個人的体験』のラストでがつかりした読者なのであるが、それではこの作品はラストだけがわるくて、二百四十八頁までは完璧かといふと、小説はとまれかくまれ有機体であつて、ラストの落胆を予期させるものは、各所にひそんでゐるのである」
と、批評している。
三島は、語るべき人物像に問題があると、指摘している。
過去の作品に比べて、ニヒリストの様相が強いと言っているのだが、
私は大江健三郎を読んだのはこの作品が初めてだったので、
よくわからない。今後、三島の言っている意味を読み解きたい。
転じて、現在世に出版されているものの中にも、
人物像に眉をひそめたくなるようなものも存在する。
三島が大江を評したのは、かなり高いレベルでの要求からだろうから、
比較にはならないが、人物像の失敗はその作品の致命傷となる。
単純な例で言うと、主人公を無学な売春婦にした作品がある。
そこまでは構わないが、彼女の一人称で語れるその作品は、
経済が絡んだ複雑な構造になっていた。
そこに無理が生じてくる。
本来、彼女のキャラクターからして理解できる範疇を明らかに超えている。
それを補完するために、説明のための人物を配置しなければならなくなる。
結果的に、物語は冗漫になる。
すべてのことにはりゆうがあります。
たしかに。
その理由を探るだけでも、読書は楽しい。
ただ、突っ込みを入れながら読む読書は、結構疲れる。