13才の少年が無残に殺された事件を耳にして、
心が張り裂けそうな思いをしているのは、私だけでないでしょう。
特に、子供を持つ親は皆、わがことのように感じていることでしょう。
事件そのものは、報道機関で知り得る情報しかなく、
逮捕された容疑者も現時点で否認している状況下でありますので、
発言は控えようと思います。
ただ、いじめについてここでもう一度、考えようと思います。
私はいじめについて幻想を抱いてはいません。
幻想とは、自分の子は大丈夫。
いじめに荷担することもなければ、
いじめられることもない。
などという幻想です。
なぜなら、私自身、いじめたこともあるし、いじめられたこともあるからです。
事の大小はさておき、皆さんにもあるでしょう。
もし、私は一度も人をいじめたこともない、と断言した人がいたならば、
その人はよっぽど無自覚な人だと思います。
厳しい言い方をしますが、世の中にはそういう無自覚な人が呆れるほど多いのです。
いじめの話をするときに、『大人』は常に客観的に意見を言います。
もっと言うと、上から目線。
いじめを語る上で大切なのは、誰にでも起こりうることで、
誰にでも体験していることだという自覚です。
誰もが封印して忘れてしまいたいことだから、
その体験を掘り起こすのは嫌なことです。
でも、そうしなければ、この問題に立ち向かうことなどできません。
私にも娘がいます。
きっと、いじめをするでしょう。
いじめられるでしょう。
社会の中で生きていけば、避けて通れないことです。
いじめるにしても、いじめられるにしても、
心にしっかりと傷をつけて、身を以て体験して、
何が間違っていて何が正解なのか、わからなければならない。
人は愚かな動物で、自分が傷つかなければ、
他人の痛みがなかなか分からないのです。
ただ、傷は小さければ小さい方がいいのです。
深く修正しようもない傷をつけたり、
命を奪ったり、
そんなことになったら、取り返しがつきません。
ここにジレンマがあります。
その境界線を教えることがとても重要なのです。
大人は答えを持っていないといけないのだと思います。
「どこからがいじめなのか?」
その答えはいわゆる「正解」ではありません。
「納得解」です。
こういう事件が起こるたびに、
私の中の「納得解」を考えます。